「鰻丼の歴史」〜丼の向こうに文化が見える〜
飯野 亮一(監修)

●日本最初の丼は鰻丼だった!

白いごはんにおかずを載せて食べる「丼」は、現代の我々にとっては最も身近で親しみやすい料理の一つです。しかし史料を紐解いてみると、丼は意外と新しい料理であることが分かります。昔の日本には「ごはんにおかずを載せて供する」という発想がなかったのです。

「丼」という革命的なスタイルが誕生したのは今から約200年前の江戸でのこと。そして、最初の丼ものとして誕生したのが鰻丼でした。では、日本初の丼の誕生した背景にはどんな事情があったのか? そしてなぜ鰻が最初の丼になったのか?
江戸時代の食文化史の研究では第一人者である飯野亮一先生の著書『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼 日本五大どんぶりの誕生』(ちくま学芸文庫、2019年9月)『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ 江戸四大名物食の誕生』(ちくま学芸文庫、2016年3月)から、その歴史を追ってみましょう。

●庶民も気軽に楽しめた江戸の「白いごはん」

まず注目したいのが、江戸時代の米事情です。当時の幕府や大名の主な財源は、農民から納められた年貢の米でしたが、経済活動を行うためにはこれを換金する必要があります。そのため、換金が可能な大都市である江戸に、大量の米が流入することになりました。

この米は、米問屋や米の仲買人を経て、舂米屋(つきごめや)の手に渡り、精米されて江戸市民に販売されました。その舂米屋の数については、延享元年(1744年)には2044軒あったという記録が残っています(『享保選要類集』九)。人口あたりに換算すると、約500人ごとに1軒の舂米屋があったことになり、これは現在の東京のコンビニの数(約1900人に1軒)を上回る多さ。大量の米と舂米屋(精米店)の存在からわかるのは、江戸の市民がこの頃には、日常的に白米を食べていたということです。[図1]

こうした豊富な白米の流通を背景に、江戸の町で人気を博したのが「ごはんもの」を食べさせる店でした。文化2年(1805)に出版された物語本『茶漬原御膳合戦』には、一膳飯(丼鉢に盛り切りで供されるごはん)、強飯、茶漬飯、鯛飯、茶飯、蓮飯、菜飯などさまざまな「ごはんもの」の店が登場しています。当時の江戸の町には、いかに多様な「ごはんもの」が提供されていたかを垣間見ることができます。

江戸の春米屋_国立国会図書館藏

[図1:江戸の舂米屋]
米舂き男か踏臼を踏んで精米している。
『嘘官弥次郎傾城誠(うそつきやじろうけいせいのまこと)』安永8年(1779)刊,国立国会図書館藏

●「ごはんのおかず」になることでうなぎの裾野が広がる

一方「うなぎ屋」の歴史を見てみると、元禄時代(1688~1704)にはすでに江戸の町でうなぎ屋が蒲焼きを販売していて、宝暦年間(1751~1764)にはすでに「江戸前大蒲焼」という名称でブランド化したうなぎを名物として売っています。安永8年(1779)の絵本には、うなぎ屋が店内の生簀に生きた鰻を入れ、店先でさばいて焼く様子が描かれていて、香ばしい匂いで客を引きつける販売方法もこの頃にはすでに確立し、江戸っ子に人気のグルメとなっていた様子がうかがえます。

しかし、当初のうなぎ屋の客層は限られていました。理由は、当時のうなぎ屋はあくまで酒を飲む店であり、蒲焼も酒の肴として提供されていたからです。どれだけうなぎ好きでも、酒を飲まない人にとってうなぎ屋は入りにくく、かといって持ち帰りにするには匂いが強いため、衣類に匂いが移ると敬遠されていました。

こうした問題を解決したのが「付けめし」という提供方法。蒲焼きに酒ではなくごはんを付けることで、酒を飲まない人や女性など、より幅広い客層の獲得を目指したのです。当然、このとき付けたごはんはやはり白米であり、蒲焼きとの相性も抜群。新たな客層の取り込みに成功したうなぎ屋の数はますます増え、文化8年(1811)の調査では237軒が確認されています。[図2]

大蒲焼「うなぎ屋」_国立国会図書館所蔵

[図2:付めし 大蒲焼の看板を掛けたうなぎ屋]
店の前にいる女性や女性と子供を交えた五人連れか、店内に視線を向けている。
『七福神大通伝』天明2年(1782)刊,国立国会図書館藏

●温かさを保つ工夫から生まれた元祖「鰻飯」

といっても付けめしはあくまで鰻とともに出されるというだけであり、丼とは別のもの。これが、ごはんと鰻を一緒に盛り合わせて出す「鰻飯」になったのが、文化年間(1804~1818)でした。

きっかけをつくったのは、芝居小屋『中村座』のスポンサーをしていた大久保今助。鰻好きの今助は、焼いた鰻が冷めないようにと、丼のごはんの間に挟んだ状態で芝居小屋に届けさせていました。時期は文化年間(1804~18)のことです。そこに、この近くに住んでいた人が目を付け、鰻をごはんに挟んだものを「鰻飯」と名づけて売り出しました。鰻飯元祖店の誕生です。そして、これが美味いと評判になり、皆が真似をするようになったのです。

もっともこうしたアイデアは今助が最初ではなく、寛政10年(1798)に書かれた『損者三友』には、相撲好きな荻江節(長唄の一派)演者、荻江東十郎が、飯の間に鰻を挟んだ重箱を持って相撲見物に行っていたという話があるほか、享和2年(1802)出版の料理書『名飯部類』にはすでに鰻飯の作り方が載っています。ただ、鰻飯が売り出された時期や場所から考えて、鰻飯は、今助のアイデアをヒントに、文化年間に売り出されたと考えて間違いはないようです。

●鰻飯は日本初の「どんぶり」

文化年間から50年ほど時代を下った嘉永6年(1853)に編集された『守貞謾稿』によると、鰻飯は丼鉢のごはんの間に鰻を盛り合わせたもので、比較的安価な小型の鰻を活用していたこと、タレで箸が汚れることから箸は使い捨ての割り箸を使っていたことなどが紹介されています。

丼鉢はもともと料理を盛るための鉢でしたが、文化年間の江戸では、丼鉢にごはんを盛って惣菜などと一緒に供する大衆的な「一膳飯屋」が繁盛し、ごはんを盛る器として定着していました。この「一膳飯」の丼に、ごはんと鰻を一緒に盛ったのが鰻飯というわけです。 注目したいのは、菜飯、茶飯などのごはんものは当時もあったものの、鰻飯のように、ごはんとおかずを一緒に盛り付けた料理はそれまで存在しなかったということです。『守貞謾稿』に「鰻飯、(中略)江戸にて『どんぶり』と云ふ」という記述があることからも、当時は「どんぶり」といえば鰻飯のことであったと分かります。これこそが「日本初の丼物は鰻丼」という説の根拠です。

ちなみに蒲焼のタレが甘くなっていったのは鰻飯の登場に伴ってのことのようです。酒のつまみとして出されていた頃の蒲焼は醤油と酒で味付けされていたが、よりごはんに合う味を追求した結果、みりんを使った甘口のタレが生まれたと考えられます。

こうして単に「どんぶり」と呼ばれていた鰻飯ですが、明治時代に入ると、「鰻丼(うなぎどんぶり/うなどん)」という呼称が登場するようになります。また、当初の鰻飯は一流店では出さないものでしたが、幕末頃には、こうした店でも鰻飯を出すようになっていたことが史料から確認できます。たとえば、幕末に来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウによる回想録『外交官の見た明治維新』下(昭和35年)では、慶応3年(1867)の出来事として「霊厳橋の大黒屋で鰻飯を食べた」という記述があり、当時江戸随一とされた『大黒屋』が鰻丼を出していたことが分かります。

元祖「うなぎめし」_都立中央図書館蔵

[図3:元祖鰻飯を名乗っている「ふきや町がし うなぎめし」の店]
『新版御府内流行名物案内双六』嘉永年間(1848〜54)刊,都立中央図書館蔵

●ご飯にうなぎを「載せる」スタイルの確立

とはいえ明治時代になるころの鰻丼は、まだ「ご飯の間に鰻を挟む」ものであり、現在のように「ごはんに蒲焼をのせる」料理ではありませんでした。では、このスタイルはいつ生まれたのでしょうか?

ヒントになるのは『明治節用大全』(明治27年)に記された鰻飯と蒲焼の作り方です。これによると、鰻飯については「鰻を蒲焼にして炊立の飯に入れ(中略)よく蒸すなり。蒸し方足らざれば味は宜しからず」とあり、蒲焼は「焼きて湯蒸しにして、醤油を着く」とあります。つまり、ご飯の中で蒸された蒲焼は蒸さないのに対し、蒲焼として食べる場合は蒸して食べる方法が示されています。それまでタレをつけて焼くだけだった蒲焼が、鰻飯の登場により「蒸されて美味しくなる」ことが分かり、その影響を受けて「蒸して焼く」という焼き方が始まったことがみてとれます。現代の東京風の蒲焼の誕生です。

蒲焼きそのものを蒸して作るようになると、もはやご飯に挟んで蒸す必要はありません。こうして誕生したのが、ごはんに蒲焼を「のせる」現在の鰻丼です。明治38年に刊行された『いろは引節用辞典』では、「鰻飯 丼に飯を盛りて、その上に蒲焼を載せたるものなり」と説明されています。

さらに、明治中期に始まり大正時代に普及したうなぎの養殖もこのスタイルの定着にひと役買いました。養殖により一定の大きさのうなぎが安定して供給されるようになると、それまで小うなぎを使っていた鰻丼も大きな鰻で作られるようになります。ごはんに載った大きな鰻を箸で切るには蒸して焼いた柔らかいほうが都合がよいです。こうして蒲焼を「蒸す」ことと「載せる」ことがセットで定着し、現在の鰻丼スタイルが生まれたのです。

町で人気のグルメだったうなぎの蒲焼と、江戸だからこそ身近にあった白米が、大衆的な丼めしと出会って生まれた鰻丼。江戸時代末期には、鰻飯を重箱に盛ることがはじまり、やがて鰻重の名も登場しますが、鰻重と比べてより親しみやすい鰻丼の雰囲気も、その成り立ちを思えばうなずけます。現代の我々もやはり、気取らずかきこむスタイルで鰻丼を楽しみたいものです。

[監修:飯野 亮一、文:Yasuko Kimura]

著者紹介

飯野 亮一(Iino Ryoichi)

食文化史研究家
服部栄養専門学校理事・講師
早稲田大学第二文学部英文学科卒業、明治大学文学部史学地理学科卒業。

著書 

『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼 日本五大どんぶりの誕生』(ちくま学芸文庫、2019年9月)
『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ 江戸四大名物食の誕生』(ちくま学芸文庫、2016年3月)
『居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化』(ちくま学芸文庫、2014年8月)
ほか。食の雑誌への執筆も多数。

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