「うなぎ」の長~い話 第3回「鰻の蒲焼」はいつから? 戸田 育男

1.縄文時代も食べていた「うなぎ」

脂ののった鰻を開いて、醤油とみりんをベースにした甘からいタレで焼き上げる「鰻蒲焼」。古来日本各地で食されてきた「うなぎ」が爆発的にその消費を伸ばすのは江戸時代、「蒲焼」という食べ方が定着してからといわれます。

縄文時代の貝塚から鰻の骨が一定量発掘されていることから、日本人は少なくとも既に3000年前には鰻を食していたことが分かります。しかし記録に残るのはもう少し時代が下り奈良時代。万葉集の編者のひとりとされる大伴家持(おおとものやかもち)の歌の中に「武奈木(むなぎ)」という言葉が出てきます。ひ弱そうな友人に「夏バテにはうなぎがいいみたいだよ。君もどうよ?」という意味あいの歌で、早くも「うなぎ=元気の素」というイメージが見て取れます。
ちなみに「うなぎ」の語源については諸説あり、そのひとつに<胸が少し黄色いので「ムナギ(胸黄)」→「ウナギ」に>というのがあります。面白いところでは<あまりの長さに鵜が難儀した→うなんぎ→ウナギ>みたいな話もありますが、この辺でやめておきます。

さらに時代が下り、「蒲焼」という言葉が鎌倉時代に登場します。都のあった鎌倉ではなく、長く文化の中心であった京都に残る記録によると<うなぎをぶつ切りにして串に刺した物を焼いた>とあります。外見が池や沼に生える「蒲の穂(がまのほ)」に似ているというところから<「蒲の穂焼き」→「蒲焼」となった>という説(写真1)。味付けもこれまでの塩に加えて酢味噌などをつける食べ方が登場。
蛇足かも知れませんが蒲焼の語源も諸説百出。例えば<焼き上がりの色が樺色(=カバノキ色・樺の木を一皮むいた茶色とオレンジ色が混ざったような色)>や、極めつけは<ペルシャ語のカバブ(羊の串焼き)。奈良正倉院の宝物に代表される古代ペルシャとの深い交流から生まれた(!?)>との壮大なものまで。語源についての話はつきません。

現在私たちがイメージする「蒲焼」に近いものは、やはり文化先進地の京都で江戸時代前期<鰻の腹を裂き、開いて串に刺した物を、酒と醤油(たまり醤油)で焼いた>というのが、そのルーツであるようです。形・味ともに現在の蒲焼にはまだまだながら、その後の蒲焼への第一歩と言えましょう。

[写真1:日本に自生するガマ科ガマ属の「蒲(ガマ)」。先端の茶色い部分が「蒲の穂」]

2.「蒲焼」にして食べるようになった背景

「鰻蒲焼」が完成するのは、江戸時代後期。江戸の後背地・北関東で、現在のものに近い「濃口醤油」が、安定的かつ大量に作れる態勢が整ったことが極めて大きいと見られます。北関東が醤油の原料である小麦や大豆の一大生産地であったこと、加えて利根川をはじめとした豊富な水があったことが濃口醬油の大量生産を可能にしました。既に室町時代には上方を中心に濃口醬油も作れるようにはなっていましたが、主流は従来型の「たまり醤油」で、濃口醬油は希少かつ高価なものでした。

さらにもう一つ重要な出来事は、「みりん」が調味料として完成したこと。それまで酒の一種であったみりんの製法や成分・味がきちんと定まり完成したのがこの頃とされます。「濃口醬油」と「みりん」を1対1で合わせたものを基本とする「鰻蒲焼のたれ」は、世界にも例を見ない絶妙な“甘辛味(あまからあじ)”を作り出し、焼いた鰻の香ばしさとあいまって人の味覚を大いに刺激します。
江戸後期、鰻蒲焼の魅力は江戸っ子を夢中にさせ、1852年(嘉永五年)の『江戸前大蒲焼番付』には江戸市中に鰻店が「大関」から番付にされ総勢221店も掲載され、店を構えないものなどを含めるともっと多く存在していたと考えられます。

鰻蒲焼好きは江戸にとどまらず、日本のあちこちに“うなぎ処”と呼ばれる鰻を名物とする土地が多数存在したようです。地域によりその開き方や焼き方に違いも生じ、包丁なども地域ごとにそれぞれ独自の発達を遂げていきます。背から開き・頭を落とし・蒸してから焼く「江戸・関東スタイル」、腹から開き・頭を残し・蒸さずに焼く「大阪・関西スタイル」はよく知られるところですが、その食べ方も含めて、地域により微妙に違った“ご当地スタイル”が日本のあちこちで長年引き継がれています。

そして江戸で完成・花開いた「鰻蒲焼」というは食文化は、その独特の甘から味と焼きたての香ばしさ・絶妙の歯ごたえと脂を含んだ柔らかさの調和が多くの外国人をも魅了。和食の進出とともに、また時に和食とひとくくりに出来ぬ唯一無二の「KABAYAKI」として、今も世界に広がり続けているところです。

[写真2:蒲焼は、醤油とみりんを合わせたタレを付ける(「ひつまぶし名古屋備長 丸ビル店にて」)]

3.養殖地の近くで加工する「蒲焼」

日本で始まった鰻養殖事業は、1970年代に温暖な台湾に、その新天地を求めて技術移転をする動きがありました。気候に恵まれ、養殖量は飛躍的に増大。その後1980年代になり、鰻を現地工場で加工、味付けまで行うようになっていきました。ここに台湾における「養殖から蒲焼までの完全加工態勢」とでも呼べそうな仕組みが完成しました。
「養殖」同様に「鰻の加工」も日本で始まり、試行錯誤が重ねられて<工場で蒲焼を作る>技術が積み上げられて来ましたが、まだまだ時代は「活鰻(生きた鰻)」が流通の主流で、鰻養殖産地の周辺に小規模鰻加工場がいくつか立地するというのが日本国内の実情でした。

日本を飛び越え台湾で量産されるようになった鰻蒲焼は、現在日本国内のスーパーマーケット等の店頭に並ぶ「冷凍鰻蒲焼」へとつながります。
そしてこの最初の「冷凍鰻蒲焼」作りには、実に多くの日本の鰻業界・食品業界の先達がかかわりました。いくつかの大手スーパーマーケットが中心になり、自社で販売することを念頭に始まった商品作り。工場内に大型「蒲焼ライン」を構築することから始められ、焼きあがった蒲焼を予冷の後に短時間で凍結する「IQF(窒素急速冷凍)凍結」や、できた蒲焼をオートチェッカーでサイズ選別する等々のハード面での技術導入と更なる開発・改良が進められました。

しかし工場での鰻蒲焼作りも「工員さんの育成」が大事なキーワードであることは他業種同様で、日本で積み上げられた多岐にわたる技術・ノウハウが現場で伝えられ、現地の人達の勤勉さや研究熱心さも加わって形を成していきました。
かくして当時の各方面のプロフェッショナル<大手スーパーマーケット、輸入商社、工場設備エンジニア、鰻たれメーカー、食品検査機器メーカー等々>が集結して完成した「冷凍鰻蒲焼」は、その原料鰻の質の高さもあいまって急速に日本市場に定着していきます。日本の消費者にとっても、以降この冷凍鰻蒲焼が、日常気軽に食せる「食卓の一品」としてお馴染みの商品となっていきます。

やがて鰻の養殖同様に、鰻の加工も、より広い土地や低コストを求めてその軸足を次第に中国大陸に移していきます(写真3)。1990年代、中国に大型の鰻加工場が増えてゆき、ピーク時には70を超える工場が林立。豊富な原料鰻と台湾経由で導入された最先端の鰻加工技術で作られた冷凍鰻蒲焼が、鰻の大消費地・日本に輸出されます。

日本人が作った「工場で作る鰻蒲焼」は、台湾を経由して中国において(物量において)2000年代前半頃にピークを迎え、その後日本への輸出は減少するも、欧米・ロシアや東南アジア・東アジアの国々、特に中国本国において、急速にその消費量が増加。気が付けば極めてグローバルな人気商材に成長し、現在に至ります。

[写真3:うなぎ蒲焼の加工工場、(株)BGI JAPANサイトより引用]

[文/戸田 育男]

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