1.「うなぎ」養殖のはじまり
現在日本で食される「うなぎ」の少なくとも99.5%は「養殖鰻」です。古来日本各地で川漁師が、あるいは一般庶民も含めて、それぞれに天然鰻を採捕して食して来ました。もちろん世界的に見ても、そうでしょう。この100%天然漁に頼ってきた「うなぎ」を、いつ頃から人がこれを囲い込み手間をかけて育て安定的に確保しようと考えたのか、紐解いていきましょう。
記録によると、日本最初の「鰻の養殖」は1879年(明治12)東京・深川で始まりました。元漁師の服部倉次郎という人が初めて試みたとされます。東京は鰻蒲焼の一大消費地であった江戸の伝統をそのまま引き継ぎ、変わらぬ鰻の大消費地であったことを考えると、その東京の一画で鰻養殖業を始める発想は極めて順当であると同時に、事業欲にとどまらない「うなぎ大好き!」という“うなぎ愛”のようなものを勝手に感じてしまいます。
深川での事業はスッポン・その他魚種養殖の経験の上に発展させたもののようですが、服部氏はその後、より温暖かつ広い土地を求めて移転先を模索します。
新たな鰻養殖地に選んだのは、静岡県の浜名湖畔。1897年(明治30)、東京での養殖を開始して18年後でした。この地で鰻養殖を決意した理由としては、①一年を通して温暖、②元々、天然ウナギの生息地として有名、③養殖用の幼魚が手に入りやすい、④養殖池を作るための広い土地がある、⑤大消費地・東京ともう一つの大消費地・大阪の中間に位置する、等々からです。
1900年(明治33)、現在の浜松市西区舞阪町の8ヘクタールの池で、15センチほどのウナギの幼魚(クロコ)から育てるという形でスタートしました。この服部氏の事業は周辺地域の住民を大いに刺激し、「鰻の養殖」は瞬く間に近隣に広がっていきます。かくして浜名湖畔を中心に、静岡・愛知・三重の東海3県が一大鰻養殖地帯となります。特に浜名湖畔を中心とした静岡県は1960年代後半にピークを迎え、当時全国の鰻養殖量の70%・16,000トンを生産しました。

[表1:大草山から浜名湖を望む]
2.より良い環境を求め産地が移動
鰻養殖事業の勢力図が大きく変わり始めるのは1970年代。1960年前後から南国・九州の鹿児島でも鰻養殖が始まり、主要産業・さつまいもデンプン加工の斜陽化もあいまって、隣接の宮崎も含めた南九州に鰻養殖が広がっていきます。そして1970年代になると、日本の鰻養殖を根本から変えることとなる大きな変換点を迎えることとなります。
それまで行われていた露天の「路地池式」養殖池から、池をビニールで覆う「ハウス式」養殖池が全国的に広がり始めました。鰻養殖サイクルは、毎年12月~4月に太平洋側の主要河川の河口で採取されるウナギの稚魚(シラスウナギ)を専業漁師が採捕、それを買い取り、池入れをしてスタートします。この一連の養殖サイクルでは、冬場の寒さによっておこる鰻の生育不良が大きな弱点でした。その解決策として考えられたのが、養殖池の温度を下げないようにする「ハウス式」でした。元々は1960年代半ばに、四国・高知県の鰻養殖業者が野菜用のビニールハウスを転用したのが始まりとされています。
鹿児島を中心とした南九州では、ハウス内をボイラーで更に加温する「加温式ハウス養鰻」をいち早く導入して、加温式養殖技術を確立していきました。南九州は、現在に至る日本の鰻養殖の中心地域となり、養殖生産量を飛躍的に伸ばしていきます。現在、日本の鰻養殖池はほぼ100%「ハウス式」となっています。

[表2:日本のハウス式養殖池、日本養鰻漁業協同組合連合会サイトより引用]
1970年代、より温暖な台湾で新たに鰻養殖事業が始まります。日本同様にジャポニカ種の稚魚(シラスウナギ)が回遊する台湾に、日本の鰻養殖技術が導入されます。台湾での鰻養殖事業は、一年を通して暖かいその恵まれた気候の元、適度に広い養殖池はすべて「路地池」。次第にその養殖量を増やしていきます。そして折からの日本の鰻需要増大と相まって、「活鰻」として生きた状態で、航空便で日本に輸出されます。台湾での鰻養殖生産量のピークは1980年代後半で、日本の歴代最高養殖量39,705トンを超える年60,000トン前後まで増大しました。
台湾での鰻養殖事業者は、さらに広大な土地とより安い生産コストを求めて、1990年代から中国大陸へと養殖池をシフトしていくことになります。台湾沿岸と同様にジャポニカ種の稚魚がやって来る中国では、台湾と気候も文化も近い福建省で養殖が始まりました。十年ほどは福建での養殖が盛んに行われていましたが、福建よりも緯度は南下した、亜熱帯地域である広東省が一大鰻養殖事業基地へと発展していきます。広東省では、その恵まれた気候に加えて、広大な土地に巨大な池が数十面並ぶ大養殖場で、鰻がのびのびと育つ環境が整備されていきました[表3]。
広東での養殖技術は台湾から導入されますが、元をたどれば日本で生まれ長い年月をかけて完成されてきたものです。ボイラーで加温することはほとんど無い広東の広い路地池で養殖された鰻は、2004年からは「活鰻」として日本へ輸出される他、中国国内の大型工場で「加工鰻(蒲焼・他)」の原料として、その養殖鰻生産量は右肩上がりで増大していきます。
また中国においては、1990年代後半から、新顔鰻である「アンギラ種(ヨーロッパウナギ)」の養殖も始まります。この品種に適した養殖法も確立され(比較的冷涼な山地でハウス式を併用して養殖)、その後さらに「ロストラータ種(アメリカウナギ)」も養殖スタート。これら新顔鰻は主に加工品として、日本及び他の国々へ輸出されると共に、中国国内の巨大市場へも出荷されていきます。中国の鰻養殖生産量のピークは2000年前後で年120,000トンと、台湾での最高養殖量の倍の量でした。

[表3:中国広東省の鰻養殖池、台山市名遠水産養殖有限公司サイトより引用]
3.限りある食資源を共有する新時代の始まり
時は流れ、ミレニアムをまたぎ、鰻養殖のはじまりから130年を過ぎた2010年代には、日本をはじめ台湾や中国も含め、それぞれ養殖生産量はピーク時に比べると、半数以下まで大きく減少しました。しかし、各国ともにその減少傾向もこの数年で一定水準の横這い状態になりました。
社会全体が右肩上がりの経済拡大期をとうに過ぎ、鰻養殖事業においても、かつての「どこまでも鰻の消費は拡大して、鰻生産量もまたどこまでも伸び行くもの」との異常に高揚した、経済成長の幻想を追い求める“躁状態”から醒め、生産量も養殖事業者側の意識もこの数年で、ようやく落ち着く所に落ち着いた様相です[表4]。
そして、これまでライバル関係でもあった日本と台湾と中国、並びに韓国の鰻養殖団体が2012年に、東アジアの資源管理を協力して実施していくために「持続可能な養鰻同盟(ASEA)」を設立し、民間ベースでウナギ資源管理の促進や適切な管理の下で養殖されたウナギの利用促進等について取組を始めました。東アジアの海で生まれ生育するジャポニカ種を東アジアの国々が協調して管理し、互いの強みを活かして養殖を行い、食材として共有していく時代に突入したのです。
「鰻の養殖・生産」から「輸出入」は、日本及び台湾、中国が必ずしも敵対する関係にあるということではなく、毎年、黒潮に乗ってやって来るシラスウナギという共通の“船”に乗ります。しかし、天然資源である以上、年によりその好不漁は予測不可能であり、毎年好不調の波に左右され、そこから1年がスタートするという同じ“船”です。東京・深川で養殖を始めた服部倉次郎氏が惚れ込んだ「うなぎ」という魚に魅了された、現代の人々の叡智と努力によって、その“船”は新しい時代の大波を乗り越えていくのではないでしょうか。
[文/戸田 育男、作図/うなぎ_STYLE編集部]